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映画 「沈黙」に思う

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映画「沈黙」に思う  

 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。<Ⅱコリント12:9,10>

 いよいよ「沈黙―サイレンス―」の上映が始まった。
 大分でも今日(1月23日)から3か所で上映されるようだ。
 「沈黙」は過去にも映画化されていたようだし、「ほかにも映画化された遠藤周作の作品も色々とある中で、外国人監督での作品は、どう描かれているのかと楽しみでもある」と言われている。 
 といっても、私は観ることができるかなあと思っている。というのは、キリシタン迫害の拷問の様を見るのは、とても恐ろしく、怖いし、悲しいからだ。まして自分に降りかかってきたらば…と考えると、夜も眠れぬくらい恐ろしい。それほど私は小心者である。

いったい誰が棄教した司祭を責められるだろうか、いったい誰が裏切り者を責められるであろうか。わたしたちは。彼らと等しく、イエスを裏切り、罪を犯し続けてきたものだ。しかし思う、私たちが理解できようとできまいと、神のご計画は成就していくのだ。そして私たちを愛してくださる神の愛は永遠なのだ。たとえ神の声がまったく聞こえないような時でさえも、それは変わらない。
 自分を裏切るものでさえ愛し、期待し、日ごと足を洗い続けてくださる主イエスのとりなしを、私たちは知っている。しかし肉に支配されている人間は違う。人間は自分の利害のためには、思いもよらぬ裏切りをするものだ。

 日本のキリシタンの素晴らしさは「殉教」において称賛されることが多いが、
だからと言って「転んだ」信者は、苦しまなかったかというと嘘である。彼らがどれほど苦しみ、隠れて信仰を魂の中に持ち続けていったかという真実は、誰にも知られることがなかったかもしれないし、見えるようなものでもなかったのであろう。これこそ隠れキリシタンである。
 この時代のキリシタンたちが、命を懸けて守り通した信仰、命を懸けて隠してきた信仰の歴史をこの日本に残してくださった神のご計画は素晴らしいものだと思う。彼らはイエスを信じる信仰のすさまじさを教えてくれる。それほど、この時代の人々は神の国と義に飢え渇き、求めたのだ。
 豊後の国では25パーセントの人々がキリシタンとなったという歴史を見ても、彼らの求めがすごかったとしか言いようがない。目覚めた彼らに対して、神は確かにそれに応えてくださったのだ。そして迫害の時を最も悲しんだのもイエスご自身であったろう。

 若い頃の私の父は、「寄り添うだけのイエスなんて…弱々しい」というくらい、じめじめしたことが嫌いで、武士のように潔く、苦しくても底に強さを感じさせるような日本人魂の持ち主が好みだったかと思う。苦しみをたたえた顔のイエス像は、嫌いというより真向から反対だったようだ。結構気性が激しかったのも確かであるが、晩年は自分を「凡聖」というくらい穏やかであった。

 「日本のクリスチャンよ、目覚めよ!」と、父がよく言っていたなあと思い出す。使徒行伝にある使徒はじめイエスの弟子たち、パウロの信仰、そして内村鑑三の信仰、釘宮徳太郎、釘宮太重、釘宮義人と世代を超えて強く迫り働き続けていくイエス・キリストの信仰を、父は今も変わらず私の魂に強く語りかけてくれている。パウロの言葉がわたしにも実現しているのだろう。

「そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。 <Ⅰコリント15:8>」

 色々なことを思い浮かべさせられる映画「沈黙」であるが、怖いと言いながらも、せっかくだから見たいとは思っている(個人的にはキチジローに扮する窪塚洋介に期待している…笑)。 

 私は今回初めて知ったのだが、皆さんこの「沈黙」というタイトル、遠藤周作は初め「日向の匂い」とつけていたというのをご存知であろうか。遠藤周作が表現したかったのかもしれないイエスの臨在が見えてくるのかと思うのだが・・・。
「ひなたのにおい」・・・!


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鉄の斧





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   鉄の斧

ひとりが材木を切り倒しているとき、おのの頭が水の中に落ちたので、彼は叫んで言った。「ああ、わが主よ。これは借りたものです」。 神の人は言った、「それはどこに落ちたのか」。彼がその場所を知らせると、エリシャは一本の枝を切り落し、そこに投げ入れて、そのおのの頭を浮ばせ、 「それを取りあげよ」と言ったので、その人は手を伸べてそれを取った。 <列王記6:5~7>

 ある日の早天祈祷会の中で聖書を開いてここを読んだ時、私は思わず吹き出してしまったのです。いや、何度読んでもおかしいでしょう?と言いたくなります。
 斧の頭はもちろん鉄でできているのですが、「それが抜けて水の中に落ちる」というのは、それだけでも「おい、おい」と言いたくなります。しかしよくあることでしょうか、危険極まりない出来事です。
 しかもその斧は「借り物」でしたから、なくせば弁償しなければなりません。「落としました」だけだはすまされないことです。思わず叫んでしまいます。「あー、それは借りものです!」と。
 この窮地にエリシャがいたことも素晴らしいことです。彼らにとってそれは神の助けそのものですから。もちろんエリシャが自分たちと一緒に来てほしいと頼んだ預言者のともがらも、聖霊様のお導きに敏感であったのかもしれません。
 とにかく「神のお働きの現場に居合わせる」ことは最大の祝福です。
 大切なのは落としたところをしっかり見据えているとこどでしょうか。神の人が「どこに落としたのか?」と聞くとき、私たちも「主よ、ここです」また「主よ、このことです」と失態の現状を告げることが出来るか否かは、奇跡を見るか、否かというほどの違いがあると思えます。
 主の前に的確に「これです」と告白しましょう。すると神はそこに「一本の枝」を切り落とし、投げ入れてくださいます。すると問題の浮くはずもない「鉄の斧の頭」が、浮いてくるのです。そして「取り上げよ」といいます。私たちは自分の手で取り上げることが出来るのです。なんと、なんと素晴らしいことでしょうか。
 イエス・キリストの十字架は、私たちのために丘の上に建てられました。皆の眼が注目する中、私たちのとらわれた魂が解放されるためです。イエス・キリストのもとに「鉄の斧の頭」があります。失ったはずのものです。
 手を伸ばしていただきましょう!
 主がともにいるならば、奇跡はいつも私たちの目の前にあります。満々感謝!



    続・大分ローカルギャザリング開催

 グローバルギャザリングとは違い、小さな大分の片田舎(笑)で小さくとも盛大に開催されました。なにより聖霊様充満のなか、喜びと、恵みを心身共にいただくことが出来たと思います。
 三教会により行われていた「大分ブレッシング」を、ギャザリングに変えての聖会です。昨年、日本で始まった「ローカルギャザリング」はまず大分から始まりました。その後、奥の細道ギャザリング(仙台、福島、栃木)が開かれ、ことし2月には、広島、松山で開催予定です。
 大分でのローカルギャザリングをこのまま終わらせるのはもったいないと、今までの続きとして「大分ローカルギャザリング」を地域のメンバーで行っていくことに三教会の先生方で話し合い決定しました。
 かつて豊後の地に信仰の花を開かせた、当時人口の25パーセントを誇ったキリシタン達の迫害の歴史を知ることより始まった大分ギャザリングですが、「打ち砕かれた」と解放の預言をいただき、今後日本全国の霊的解放のため、サタンによる呪いの打ち砕き、地では井戸の上、空中では空を覆う鉄の岩盤をドリルで打ち砕くという祈りの戦い、霊の戦いを広げていくことを誓っています。

 今回、三教会先生方、教会メンバーの方々に加え、H先生ご夫妻が来てくださり、み言葉によるメッセージ、お証をいただくことが出来ました。
 余談ではありますが、参加していた乳飲み子、幼児たちに金粉が粉のように吹き出し、この私にも当日夜遅くまで、手のひらの金粉と、封筒から出したお札の上に一粒の金粉という、主の恵みの喜びが満ち溢れた日となりました。

 「信仰さえあれば・…、今時、『奇跡や金粉』、まして、『天の窓が開いた』などと、なんかキリスト教じゃないようだ」と思われる方もあるかもしれません。しかし、子供のように喜び、主を拝し感謝するとき、神様のほうが私たち以上に喜んでくださっていることの証、また見せてくださる「しるし」なのです。喜んで見せていただきたいと思っています。ハレルヤ!

 

天の窓が開いた!

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11月4、5日、兄弟三人で鳴門にある大塚国際美術館へ小旅行をした。

佐賀関から、私の車でフェリーに乗船、四国の三崎で降りて佐賀関から続く国道197号線を走り、八幡浜から大洲のインターに入り松山自動車道を行く。

あと、徳島自動車道にそのまま入り鳴門で高速を降り、美術館までというコースだ。途中サービスエリア2か所に立ち寄り休憩しながら、三崎から大塚国際美術館まで約5時間かかった。

美術館への期待にわくわくしながら、目的地まではしった。行きは先導車があり、楽だった^^; !!!



さて、 大分佐賀関からフェリーに乗ってしばらくすると佐田岬が見えてきた。

海がきれいだ。甲板に上がり、そこでスマホで写真を撮った。

その後、この写真をFBに乗せたところ、これは何かということになったのである。

 「雲の一部に玉のような白いものがある。」という投稿に目を凝らしてみたところ、これは何だろうと、拡大してみたのが上の写真である。

まさに天が開いて向こう側が見えていた!



しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。<使徒7:55、56>



聖書にある通り、ステパノが見たイエス様(上のみ言葉はステパノの言葉だ)のように、殉教したキリシタンたちが死刑場の十字架の向こうに見たように、天はその窓を開いて私たちにも見せてくださった。 

最近の聖霊様のお導きはすごいのだが、ここまで見せてくださる、慰めと励ましに感謝!




夕焼け絨毯  


朝焼け

空も雲もいろいろ



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