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しおんのゆめ・・・わたしのまわりは神様からのプレゼントでいっぱい!

鷲雲


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鋭いくちばしと、目
突然目の前の空に現れたわしは
私の守り、平安をもたらす翼をもっていた 

大きく羽ばたくと、こちらを見て消えていった




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これは私の愛する子




マタイによる福音書3章 17節
また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。


神が語ってくれたお言葉は、、ヨハネの心に響いたでしょう。
そして私たちの心の中にも響きました。
このお方こそ、神のひとり子、救い主イエス様だと。



クリスマス・クリスマス

クリスマス・クリスマス



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リース

聖夜



シャカイナグローリー

の栄光黄金の門
シャカイナグローリー

ユダの王エホヤキムの治世の第三年にバビロンの王ネブカデネザルはエルサレムにきて、これを攻め囲んだ。

主はユダの王エホヤキムと、神の宮の器具の一部とを、彼の手にわたされたので、彼はこれをシナルの地の自分の神の宮に携えゆき、その器具を自分の神の蔵に納めた。<ダニエル1:1、2>


 聖書は素晴らしい。
 み言葉は、愚かなものに真理を教えてくれる。
 み言葉は、真理を明らかにしていく。
 私たちの理解を超えて、聖書は、世の初めから、真理を伝えてきている。

 木曜日の学習会ではエズラ記に入り、すでに6章を終えた。
 この時代の歴史をよく知らない私たちにとって、エズラ記はとても新鮮だ。

 礼拝での講解メッセージはダニエル書に入った。

 ダニエルたちがバビロンによって捕囚された時、神の宮の器具の一部、金や銀、青銅などが、本来なら置かれるはずもない偶像の地に持っていかれ、そこに収められたわけだ。(シナルの地とは、バベルの塔のあったところでもあり、当時偶像礼拝の中心の地だ)

 後に、神殿は破壊され、すべて燃やされてしまった。
 この時の神殿には、すでに神の臨在がなくなっていたのだ。
 神の栄光シャカイナグローリーは、すでに神の元に帰っていった後である。
 純金箔を剥がれた契約の箱は、この時、燃えてしまったのであろうか。

 今回は、エゼキエル書により、契約の箱とともにあった神の栄光の行方に目を向けてみよう。
 
ここにイスラエルの神の栄光がその座しているケルビムから立ちあがって、宮の敷居にまで至った。<エゼキエル9:3>

この人がはいった時、ケルビムは宮の南側に立っていた。また雲はその内庭を満たしていた。
主の栄光はケルビムの上から宮の敷居の上にあがり、宮は雲で満ち、庭は主の栄光の輝きで満たされた。<エゼキエル10:3、4>


時に主の栄光が宮の敷居から出て行って、ケルビムの上に立った。<エゼキエル10:18>

するとケルビムは翼をあげて、わたしの目の前で、地からのぼった。その出て行く時、輪もまたこれと共にあり、主の宮の東の門の入口の所へ行って止まった。イスラエルの神の栄光がその上にあった。<エゼキエル10:19>


文字色主の栄光が町の中からのぼって、町の東にある山の上に立ちどまった。<エゼキエル11:23>

そしてわたしが見た幻はわたしを離れてのぼった。<エゼキエル11:24>

 偶像礼拝に心を傾けたままのユダヤの民を、待ち続けるかのように、神の箱から飛び立ったケルビムとともに神の栄光は、しばらく東の門(今のエルサレムにある閉じたままの黄金の門)にとどまったと、エゼキエル書に書いている。
 こののち、神の臨在の栄光は、東の山、つまりオリーブ山の上に立ち止まった。

 神は待ったのだ。神を慕い求めてくるイスラエルの民を。
 なんという忍耐であろうか。
 オリーブ山の上には3年半とどまっていたと言う。
 イエスの地上にいた生涯を思い起こされる。

 こののち、帰還した民によって建てられた第2神殿には、イエスが直接来てくださることとなる。
 不思議なことに、このイエスの死、復活、昇天によって、神の栄光、シャカイナグローリーは、今、神の宮である私たち一人一人の心の中に、天の神殿と直結する形で、輝き続けている。(た)


新しい賜物

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新しい賜物




彼は天を低くして下られ、

暗やみが彼の足の下にあった。

彼はケルブに乗って飛び、

風の翼に乗ってあらわれた。

彼はその周囲に幕屋として、

やみと濃き雲と水の集まりとを置かれた。       <サムエル下22:10~12>



 7月15日(月・祝)、大分カルバリチャーチに於いて「大分ローカルギャザリング」が開かれた。

 アルゼンチン、台湾の教会をめぐって、大いに恵まれた永野先生のお話にみなワクワク期待し、また、福岡、山口県宇部など、遠い教会からの初めての先生方や兄弟姉妹の参加があり、とてもエネルギッシュな聖会となった。




 キリストの福音大分教会からも精鋭数人の参加、特に遠く阿蘇からの井野さんご夫妻の参加は嬉しかった。

 お二人のニコニコ顔が、外部の教会で見ると、とてもほっとする。

 弟のベースギター、妹の賛美リーダー、ともに奉仕感謝であった。

 賛美についても、主のみ前で踊り、又主と共に演奏し、歌う、これをとても楽しんでいるように見える。




 「私たちの礼拝はこうでなくっちゃ」と思う。

 妻からさげすまれたダビデのように、幼子にかえって私たちは主を喜び、主に喜ばれるものとなりたい。

 いや、そうなった(笑)、成らせていただいた―――のだ。




 恥ずかしかった「ハグ」も―――だいぶなれた。

 「愛してる」も言えるようになった。

 この喜びは「賜物」であり、「実」だ。今日いただく「新しい賜物、それは新しい実」である。

 このことは、今回のギャザリングで、一番私の心に刻まれた。




 今回私は絵を描かせてもらった。

 冒頭にあげたみ言葉は、絵をかき終わって3日目くらいに与えられたもの。

 関連してみ言葉が、毎日次々と与えられる。

 聖書を探すのではない。

 毎日、「早天祈祷会」、又「聖書学習会」というようにみ言葉(聖書)を開くたび、そのところで示されていく。




 そもそも私にとっての預言的アートというものは、数年前の東京の21世紀教会での礼拝後与えられた「夢と絵を描くこと」の預言、ここから始まった気がする。




 四国松山と広島のギャザリングの前に、橋本先生から描いてと頼まれた預言的アート2枚が、預言とどちらが先か後かはよく覚えていないが(笑)、わたしの預言的アートの発端となった絵である。




 絵を描くのはとても好きだったし、漫画を描くことも大好きだった。

 自分の大好きなことを、主にお捧げできることは素晴らしい。

 絵を通して私のライフワークが示された感があり、「主の下さる賜物を感謝して受け取る」ことが大切だと、実感する。




 21世紀教会での預言の最後に、「シーズンが来たら明かされる」と言われていたことの意味が、絵の解き明かしのことではなくて、私にとっての新しいシーズンが来るんだという預言であったということも、恥ずかしいことではあるが、「今、わかった」と言える、そんな喜びが湧いてくる。




 神が下さる、新しいシーズンがやってくるとき、それはまるで神は私の魂の中に「天を押し曲げ降りてこられた」という、今回与えられたみ言葉のようだ。




 突然(私にとっては突然である)主はケルプに乗って大いなる権威をもって私のうちに来てくださる。

 私の魂を、主は幕屋(仮庵)としてくださったのだ。




 私たちを囲む命の水は永遠に枯れることがなく、私たちも決して枯れない。

 なぜならば、私たちはイエス・キリストに、接ぎ木されたものであって(ローマ11:24~26)すべてのものを「根」からいただいているからだ。アーメン!