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信仰とは    2) 死んで生きる







信仰とは


  2) 死んで生きる 
 

 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。<ローマ人への手紙第6章8節>


 「いっぺん死んで見ませんか」という藤林イザヤ先生の著書がある。凄いな、勇気あるなとこの本の題名にはびっくりした。この題名をみると中を見てみたくなる。死にたいという自殺志願者の人も含め人は誰しも死について本当のことが知りたいという思いがあるのだ。生まれてきた以上必ず死ぬという事は一人も例外がないことであるし、いったい死んでから先には何があるのだろうという疑問と、新世界への希望である。

 今、死にたいと思っている人が目の前にいるとして、この題名の言葉をその人の前で言えるかどうか。わたしにはそんな勇気はない。目の前で今死にますと言っている人に、説明したり、又、くどくどと説得などはできない。出来ることなら、そこまで心が冷え込んでしまう前にお会いしたい。それでもなお難しいであろう。できれば会わないですむよう主に祈る思いだ。「命の電話」などで死に直面した人の話を聞いてあげると言うのも訓練のいることだろうなと、「命の電話」にたずさわる方々には敬服している。 

 しかし、本当に生きるためには,死んでもらう必要がある。真に生きると言う事は、真実の死を知るということでもある。「肉に死んで、霊に生きる」ということだ。死んだ以上、「肉とは一切のかかわりがない」という生き方だ。

 イエス様は「死んでも生きる」と言われた。聖書の中でニコデモと言う偉い律法学者が。「えー、もう一度母の胎に入って生まれなおすのですか」といったほど、一度死んで生まれ変わるということは、とても理解し難い。頭の良い人ほど、解らないものだ。

 信仰を頭で理解しようとすると、弁証法なる論法を用いたり、表現をあれやこれやと論理的に築き上げてみる。しかし、どんなに解ったつもりでも、田舎のおばあちゃんクリスチャン(大変失礼な言い方で申し訳ない)のほうが、信仰を理解しているものだ。理屈抜きで、イエス様と密着して生きている。イエス様とぴったり合わさって生きていると知ってか知らずかこの世に対しても「死んで生きる」を実践しているのだ。そんな人になりたい、そう思うし、願っている。だからそのような方々をとても尊敬してやまない。

 そしてそんなおばあちゃんクリスチャンたちは、きっと、「罪の支払う報酬は死」という罪と決別した、新しく生まれ変わった瞬間の経験が、いつの間にか今のぶれない信仰生活を支えているのであろう。これも頭で理解していると言うよりは、聖霊様によって瞬時に与えられている新しく生まれる体験だ。「何かわからんけどイエス様が今日も生かしてくださっているわあ」「毎日、何があっても嬉しいわ」「今日もきつかったけど、守られたわあ」というようにである。死んで生きるを日々実践させていただいているのだ。

 釘宮義人師の日岡だよりで「やごは死なない」という一文があるが、その中で「新しい次元の生命に飛躍すること、それこそが「死」の本当の意味ではないか。」とある。まさにわたしたちもトンボやちょうのように古いからに執着することはやめ、成虫となって、大空を飛んでいきたいものである。これこそイエス様の命に生きる信仰であろう。

 

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