しおんのゆめ・・・わたしのまわりは神様からのプレゼントでいっぱい!

信仰とは    3) たといそうでなくても






信仰とは 


   3) たといそうでなくても


 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。<ダニエル書3章17、18節> 


「絶対に神を信頼する」こういったならば「世の中に絶対なんてあろうはずがない」という言葉が返ってくるであろうか。しかし絶対的信頼がなければ、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのように燃えさかる炉の中に入れられようとした時「たといそうでなくても」とはいえないのである。

 私たちは「自分がそのような目にあったら」と、恐れ、不安を覚える。だからこそ「言えない」のだ。他人事なら少々の恐れはあっても、「すごいなあ」で済ませる訳だ。

 このように何が起こっても受け入れられるダニエルたちのように、そこまでの試練や迫害にはあわずとも、イエス様を受け入れ、クリスチャンとなった途端、祝福に充ちた、素晴らしいことばかりが起こるかというと、多分、多くの人は落胆するであろう、試練は矢のごとくやってくるのだ。この試練を乗り越えられるのは、イエス様への「絶対的信頼」の他ないとしか言えない。私はキリスト教も、立派なご利益信仰だと思っている(笑)。このご利益、言い換えれば神の利益である私たちへの祝福は、人間の思いでは、推し量れぬものがある。そこに神のご計画があるからだ。

 他人が聞いたら「それくらい」と思うような小さな試練であっても、自分にとっては世界中が自分に敵対しているかのごとく思え、震えてしまう時さえある。病に対する不安は特にそうだ。こんな時、すぐさま主が不安を去らせ、又、病がさらりと癒されるなら、「たといそうでなくても」という信仰はいらないであろう。

 これはどちらになってもいい的な伏線を張った凄く無難な信仰というわけではない。「自分の思いどおりのいい方向に行こうが、自分の嫌な方向に行ってしまおうが、そのまま主の導きと従える強い信仰による祈り、生き方だ。パウロの言う「我にとりて生くるはキリストなり、死ぬるは(もまた)益なり」なのだ。

 主を信頼して生きるものに起こること、たとえそれが一時の悲しみや、苦しみであったとしても、それは希望を裏打ちされた悲しみ、苦しみであるのだ。そしてこの悲しみや、苦しみに対しては、案外容易に乗り越えられる力を頂けるものだ。何故ならイエス様はこう言っている。


 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう<マタイによる福音書11章28節>わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。 <マタイによる福音書11章30節>


 「神の霊によって生きる」も、「死んで生きる」も、「たといそうでなくても」で生きるにしても、すべての答えは主イエス様のもとに行くことだ。




 

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