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信仰とは    4) 主が共にいてくださる

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信仰とは



   4)主が共にいてくださる


 王は答えて言った、「しかし、わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害をも受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ」。 <ダニエル書3章25節>

 「心頭を滅却すれば火も亦涼し」<杜 荀鶴(とじゅんかく)>
 意味を調べてみると、【心の持ち方ひとつで、いかなる苦痛も苦痛とは感じられなくなること】とある。「夏日悟空上人の院に題するの詩」といって詩吟をする人はよく知っている詩の最後の一節だ。

 心の持ち方で、あくまでも私たちにそれが出来ればだが、又そうしてでも、現状の猛火をくぐり抜けなければならないと必死の時、ある意味できることなのであろう。そのような境地に到達できる心や精神の修行や修養も必要なことであろう。

 しかし彼らにとっては修行の成果ではない。「たといそうでなくても」と王にこたえたシャデラク、メシャク、アベデネゴたちは、ほんとうに燃えさかる炉の中に投げ入れられた時、苦痛はなかったのだ。苦痛を、苦痛と感じないのではなく、苦痛はないのだ。彼らは火の中を歩いていたのだ。主と共に!歩き回っていたのだから驚く。

 私たちが、一生懸命精神修行をして、少々の事は通り抜ける力を蓄えられたとして、やはり、「私はひどい拷問や、死に至る刑にはたえられないかなあ」と思うのだ。きっとこの世の修行くらいでは、心頭滅却の境地には至らぬようだ。いや修行さえも無理かもしれない(笑)。

 「ここで笑って逃げる訳にはいかない」というのは私だと思うが、いや「逃げる必要がない」というのがここに見る信仰だ。問題のさなかで、悩みのさなかで、燃えさかるサタンの攻撃の中で、平安を得るということが起こってくる。それは彼らのこのときを見ると良くわかる。なぜかと言うと炉の真っ只中で主が共にいてくださっていたからだ。

 主とともにある苦しみ、悲しみは、思い変えや、自分の精神修行などで喜びや平安に変わるわけではない。

 恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。<イザヤ書41章10節>

 弱いこの私が、強くなれるのは主が共にいてくださるこの時だ。共にいると言うことが修行や思いかえではなく、心の底から喜んで賛美している自分を見ることが出来る唯一の方法でもある。







 

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