しおんのゆめ・・・わたしのまわりは神様からのプレゼントでいっぱい!

信仰とは 5) 愛の契約によって



最近はスマホで写真を撮ることが多い。実は一眼レフカメラが重いのです(^-^;) なかなかいつも持って歩くというわけには行かなくなりました。これも年のせい(^^;)かしら? しかし、スマホでも結構シャッターチャンスさえ逃さねばいい写真も撮れそうです。とにかく楽しいが一番ですね。【釘宮】



信仰とは




    5)愛の契約によって



 あなたについてはまた、あなたとの契約の血のゆえに、わたしはかの水のない穴から、あなたの捕われ人を解き放す。<ゼカリヤ書9:11> 


今私たちの生かされている時代を考えてみる。ここに来て私たちは、難しい教理や律法のみの捕らわれ人から、ただイエス・キリストの恵みと平安の中で生かされる、新しいイエス様との愛の契約に捕らわれた時代にいると思う。再臨を目の前にした、人間の歴史の中でも一番劇的な、感動の時代だ。私たちにとっては今が、水のない井戸から水の溢れる井戸へと移される時なのだ。

 それはまさに、砂漠では死から命へと移されることだ。解放の時なのだ。それはイエス様の血をもってもたらされるものだと言う。

 私たちに対するイエス様の愛は十字架の血潮である。

 自分の人生の中でも、この世に生まれてきて、今が一番、劇的で、感動ある時なのだという喜びなくしては今生きている甲斐がない。つまらなかったと思う人生は、やはりつまらない。

 ところが、同じ人生をイエス様の十字架に透かしてみると、つまらないどころか、色とりどりのオーラに包まれた、素敵な人生が見えてくる。

 主の十字架の愛はとこしえに変わらない。「われ更に汝を去らず、汝を捨てじ<ヘブル13:5>」と、かつて釘宮義人牧師が2度目の回心で(確かそうだったと思うが)「次の朝起きてもなお主は私のそばから離れないといってくださった」という体験のように、いったん救われると主の愛の契約は破られることがない。あるとすれば、自らが破るときだ。

 私たちは何から救われたのか。つまり、私たちの赦しがたい罪とは何なのか、罪の中にうごめいていた私の行く先には何があったのか、また、その真反対にある命の支配の中とは何なのかである。

 聖書にはこのように書いている。


 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである<ローマ人への手紙6:23>

 それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。<ヘブル9:15>
 


「私たちはサタンの陣地の中にいるようなものだ」といったのは死人を生き返らせる奇跡の人ガジマ牧師だ。

 このサタンの陣地の中で光の子供として輝き、勝利していけるのは、私たちが、永遠に変わることのない主の愛の契約により天の国籍を持つものだからである。

 イエス様の救いと解放は永遠であり、御国の権威は勝利の力である。



スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://shionnoyume.blog.fc2.com/tb.php/265-214b33f5