しおんのゆめ・・・わたしのまわりは神様からのプレゼントでいっぱい!

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まばゆい体験






まばゆい体験



 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。<エペソ人への手紙6:18>


 祈りは、祈りによってでしか分らない。そこで、祈ることを、この集会の今後しばらくの目標にしたい。この集会を「祈りの教会」としよう。私ども一人一人「祈りの人」になろう。私どもの生活を、「祈りの生活」としよう。【「日岡だより」第646号~釘宮義人より抜粋】

 祈祷会や小集会で祈ってくださいと言われると凄く緊張しますね。「なんと祈っていいのかわからない」とよく聞きます。人前で祈るのが難しいとしても、一人のときはどうでしょう。誰かが聞いている訳ではないのになかなか祈りが続きません。人前での公式的な祈りは別として、まず、どこででも祈る時にちょっと頑張ってみることも必要かと思います。

 私たちの頭の中にある思いを祈りとして、言葉を使って祈るとします。兎に角思い出すことの全てを注ぎだしてみます。なるべく声を出して祈ります。意識がはっきりするからです。思い出そうとせず、また、言いたくないことばかり思い出してしまうと、祈りはストップしてしまいます。一人で祈っていても誰も聞いていないとわかっているのに、祈れません。これは、わたしたちの祈りを確かに神様が聞いているということをわたしたちは基本的に知っているため起こることでではないかと思います。ここで、心の中にあるものを注ぎだすということをしてみてください。とにかく注ぎだして祈ることです。祈ることがなくなってもまだまだ、賛美、感謝と祈りは終わることがないのです。いつのまにか、主と二人で向き合っているのがわかります。

 もう一つが異言の祈りです。

 異言で祈れば一日中だって祈れるのです。といっても、わたしも物理的に一日中祈り続けた事はありませんが、ガジマ牧師は朝早くから起きて夜の集会のために「今日は異言で10時間祈っています」といわれていました。「主婦は台所で、学生は学業の合間に、仕事を持っている人たちは、通勤中、また何かをしながらでも、祈れる。みんな、何時でも何処でも異言でならば、祈り続けられる」というのです。

 とくに、癒しと解放(悪しき者への勝利)のためには、「イエス様にいただいている権威の行使のために異言で祈りなさい、祈って祈って、力(権威)をナイフのように研ぎ澄ませていきます。祈れば祈っただけの力を研ぎ澄ますことが出来ます」とおっしゃっていました。「イエス様の権威は信じたときにすでにいただいています。権威はくださいと求めるものではありません。すでに信じたときに頂いていているものです。」とも言われました。この異言の祈りは私たちのうちに聖霊様が働いて下さっている証しです。

 祈りによる勝利は、どんなに小さなことでもわたしにとっては本当にすばらしい体験として魂に刻まれていきます。これこそわたしたちが聖霊様によって体験していきたいことです。とてもまばゆいほど、素敵な体験です。




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