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ソドムとゴモラ







ソドムとゴモラ



 彼はためらっていたが、主は彼にあわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れ出し、町の外に置いた。
 彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」。<創世記19:16、17>



 ソドムとゴモラの話しでは、「ロトの妻が後ろをかえりみたので塩の柱となった」というくだりが、クリスチャンならば知らない人はいないといってもいいほどの聖書の箇所だ。

 たしかに死海の南側を通った時、まるでロトの妻の姿のような大きな岩塩の柱がいくつもあった。この地域ならではの様相である。

 この町は、アブラハムのとりなしにより、10人でも正しい人がいれば、滅ぼされなかったはずであった。しかし、10人どころか、ロトの婿たちでさえ「冗談だろ」と言ってとりあわなかったほど、正しい人はいなかった。ただ、ロトと、その妻、二人の娘たちの4人だけが逃れた。そしてそのうちの一人、ロトの妻は塩の柱となったのである。

 主はロトを哀れみ、二人のみ使いによって大急ぎでみなの手を取り(強く握って)町の外に連れ出されたのだが、ロトのぐずぐずした態度はなんだったのだろうか。ソドムの町が今にも火と硫黄で焼き尽くされようとしているにもかかわらず、ロトには事の重大さがよくわかっていなかったのだろうか。

 それとロトには主が見えていなかったのであろうと思われる。16節をみると主と二人のみ使いが出てくる。実際主はいつも共にいてくださっているのだが、ロトには見えてなかったようだ。先にソドムに着いた御使いのあと、アブラハムのとりなしを聞いていた主が(創世記18:22)追いかけて来たに違いない(歩いて追いかけたとは思えないが・・・笑・・・主は確かにソドムの町を滅ぼすために来た)。


 こうして神が低地の町々をこぼたれた時、すなわちロトの住んでいた町々を滅ぼされた時、神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された。<創世記19:29>


 信仰の父、アブラハムのとりなしはすごい。確かに主はロトをあわれんだが、これは主とアブラハムの強い信頼関係、契約を結び合った仲の神と人との強い結びつきによりとりなされたものだ。こんなにも近いイエス様との関係を私たちも持ちたいものだと切に願うし、既に得たりと信じることこそが、実際にイエス様を身近に感じることの出来る信仰の極意だ。理屈で「主は共にいます」と魂に言い含めるよりは、私たちの感情をくすぐってくれる聖霊様による働きを求め続ける。



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