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主の山に備えあり




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主の山に備えあり




 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。<創世記22:6~7【新共同訳】>
 


1945年8月6日に広島、9日に長崎に対して原子爆弾が投下され、そして敗戦へと時は移っていった。わたしは、たまたま長崎原爆記念日の9日に読んだ「この子を残して」 【永井隆著】の中でひとつの箇所に釘付けになった。

   「ああ、第二次世界大戦の最後の日、長崎浦上の聖地に燃やされた大いなるハン祭よ!
       ハン祭の炎のなかにうたいつつ
          白百合少女燃えにけるかも」
 
 
 少女たちは賛美歌をうたいながら生きたまま燃えていったというのだ。

 永井博士は原子爆弾は決して天罰ではなく、何か深いもくろみを持つ御摂理のあらわれにちがいないといっている。ここに永井博士の信仰を見る。はたしてわたしはそう受け取ることが出来るのだろうかと思ってしまう。

 そして「永井博士のような、また冒頭にあげたみことばでのアブラハムの究極の場における信仰、神と父との深い関係を知るイサクの信仰を見習わせて下さい」と祈るしかない。

 イサクは父に「言おうか、言うまいか」とためらいながら「ハン祭の小羊はどこにあるのですか」と聞いた。少し仰天しながらもアブラハムは「主が備えて下さる」と言い切ったのだ。
 
 この言葉でイサクは全てを理解したに違いない。そしてアブラハムは捧げる場所につくとイサクを縛り、ナイフを振り上げたのである。もちろん二人は同意の上だろう。

 アブラハムの時代でも、レビ記に書いてあるような手法でハン祭をささげたのだろうか、イサクに対してもそうするつもりであったのだろうか、と思うと衝撃を受ける。


 この信仰を見習おうとするのは至難の業だ。一口で「こんな信仰」というが、徹底した神への従順、服従は信頼というものの度を超えている。

 「私たちはこれを真似できるのか」そう思いつつ神に目をあげたとき、私は7節にあるアブラハムの告白のことばがこのあと成就したのだということを知って驚いた。

 自分の小ささ、愚かさを知ることも大切だが、それ以上にイエス様のお言葉を告白すること、日々、信仰による告白をすることだ。アブラハムのように神からの告白をいただこう。

 モリヤの山で、神の示す地にて、アブラハムの告白通りに、神によってはん祭の小羊が準備されたのだ。同じように私たちにも、聖霊様によって告白する言葉がイエス・キリストの十字架と復活によって成就していくのである。(【ハン祭】変換が出来ないのでカタカナで表記した。【焼き尽くすささげ物】のこと)




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