しおんのゆめ・・・わたしのまわりは神様からのプレゼントでいっぱい!

聖書の真実







聖書の真実



 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。
なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。<ペテロの第二の手紙1:20,21>



 マタイの福音書1章を初めから見ていくとイエス・キリストの系図の中に、長子でもない、また兄弟たちと共にヨセフを売ったユダの名がある。ヤコブの愛したラケルの子でもない、レアが4番目に産んだユダの名である。

 しかしユダはヤコブの預言をみると、「獅子の子」である。「つえはユダを離れず」ともかいている。ユダの子孫がダビデ、そしてイエスへと続いていくのである。

 またイエス・キリストの系図が続く中、タマル(カナン人の娘)、ラハブ(エリコでの遊女)、ルツ(モアブ人)、そして夫ウリヤを殺して得たダビデの妻など、その一人ひとりの記事の中には私たちの理想や思惑とは違う赤裸々な人間の罪とも思えることさえも書かれている。

 聖書は人間の欲を満たすためにあるものではない。創造主なる神様を知って生きるためであり、人間の罪を根底から救って下さるイエス様を知るためにある。

 聖書の中に書いている罪、私たちが読みたくも無いような記事、これらを見るとき、私たちはそれを自分の罪としてとらえる事ができるならば、聖書は私にとって世界でたった一つの「救い主イエス・キリストへの道案内」となる書物である。
 

 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。<マタイによる福音書9:12>


 「自分が病人である」という自覚がなければ、医者にも行かず、薬も飲まず、養生も節制もしない。健康のために日々心を配ることも病気になりたくないためだが、私たちの魂の健康のためにも、毎日の聖書は最高の心の健康食だし、病気のこと、また治療法を教えてくれるすばらしい魂の「赤本(家庭の医学)」でもある。

 私たちは、私と神の間の架け橋なる「十字架にかかって私の罪のため死んで下さったイエス様の救い」を受けることによって聖書を本当に理解することができるのであって、たとえ書いている言葉が理解できたとしても聖書の中にある神様のおこころは、聖霊様によらねば理解することが出来ない。

 初めの創造の時以来、今の時代に至るまですべての計画を立て、実行し、完成に至らしめていく創造主なる神様に心から畏れをもってほめたたえる。そして神様によるすべてのご計画に私をも入れてくださっている恵みを心から感謝するのである。






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