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手放す勇気といさぎよさ








手放す勇気といさぎよさ



 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。<マタイによる福音書16:25>


 「自分の大切なものを手放す」と簡単にいっても、そうやすやすとは手放せないものだ。どうかすると、そんなに大切にしているとは思えないものでさえなかなか捨てられないものである。私たちが大切にしているものを手放すにはちょっとした勇気といさぎよさがいる。

 イエス様はご自分の命を私のために捨ててくださった。私はどうだろうか、「イエス様のためならば命を捨てる」と言えるのか。この言葉から逃げるか、逃げないまでもお茶を濁してしまうだろう。


 しかし、たとえ私に出来なくてもイエス様にはできるのだ。イエス様は神である。神に出来ない事はない。神は何でも出来るからである。その神に祈るという事ならば、即私にも、誰にでも出来ることなのだ。とにかく祈りつつ立ち上がって進もう。


 どうか全能の神がその人の前であなたがたをあわれみ、もうひとりの兄弟とベニヤミンとを、返させてくださるように。もしわたしが子を失わなければならないのなら、失ってもよい」。<創世記43:14>


 全能の神にヤコブは祈った。祈りの中で固執から解放されていく。

 ヤコブには「最愛のヨセフをなくし、今またベニヤミンまで無くすかもしれない」という不安との葛藤があった。どうしてもベニヤミンをエジプトに連れて行くことは承知できなかったのだ。

 そうこうするうちに手持ちの食料はそこをついてしまう。どうしても子供たちをエジプトに行かせなくてはならないと切羽詰ってくる。私たちにも同じような事が起こり得る。だが、この状態がやってくると実は感謝なのである。

 目に見えるところは窮地ではあるが、神によって「神のみこころに従わねばならない状況までつれてこられた」ということでもあるのだ。これは、祈らずにはおれない状況が目の前に置かれているということでもある。

 もともと自分ではどうにもならない問題や、悩みの解決を祈る訳だ。ここは委ねてしまう他ない。時には自分の知恵の無さまでもが神の知恵をいただく鍵にもなる。

 解決策を自分で見つけられないほどの問題であればあるほど、どこかでおもいっきり主に委ねなくてはならぬ。「主がとられるならばとっても良い」といういさぎよいヤコブを真似て小さいことからやってみよう。どんな小さな問題でも主の御前に放り投げてしまうならば、私たちには思いもよらない主のお答えと平安をいただくことが出来るだろう。






 

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