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「わが意(こころ)なり、潔くなれ」



「わが意(こころ)なり、潔くなれ」 



 イエスがある町におられた時、全身重い皮膚病にかかった人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病がただちに去ってしまった。<ルカによる福音書5:12,13>


 この聖書箇所こそ、文語訳聖書で読みたいところです。「私の意志だ」とおっしゃるイエス様のお言葉がきこえてくるような、力強いお言葉です。1節の「全身~」の前に文語訳聖書では「視よ」という短い言葉が入っています。

 町々を巡り福音を伝えていたイエス様が、ある町にはいるやいなや目の前に飛び出してきて、地にひれ伏した全身を覆うほどの重い皮膚病の人に出っくわしたのです。これは、この光景を見ていた弟子がびっくりするほどの出来事であり、印象に残ったことであったのでしょう。

 この人はイエス様のうわさを聞いて待っていたに違いありません。

 「私を清くすることのできるお方はこの方以外にはいない。このお方ならば、その気になればできないことはない。しかし、こんな穢れた私に眼を向けてくださるだろうか。いや、一か八かすがりついて懇願するよりほかに手はない。」

 自分の人生のすべてをかけて、御前に躍り出る勇気が、この人のどこに潜んでいたのでしょうか。あきらめていないのです。99%だめだとあきらめていたとしても、あとの1パーセントの生きたいという希望が、この人を奮い立たせたのでしょう。

 
 そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう<ルカによる福音書17:6>


 わずかな希望であったとしても、イエス様は見逃しません。「あなたの思っているとおりこれが私の意志だ」とおっしゃってくださいます。この人が思う以上にイエス様は手を伸ばし、彼にさわり癒してくださったのです。知らん顔して通り過ぎるどころか、近くに来て、人が触ることさえできない重い皮膚病に触ってくださったのです。

 私たち一人ひとりを見逃さず、手を伸ばしてくださるイエス様を、私たちも見逃さずに御前に出て行くことが主の癒しと解放の御手の業を見ることになるのでしょう。

 主への期待や希望、確信が私に1%くらいしかなかったとしても、求め、懇願していくならば主は聞いてくださるでありましょう。この時、たとえ主のご意志が私の思いに沿わないものだったとしても、ひたすらイエス様を礼拝し、賛美し続け、祈り続けます。そして「私の意志だ」といわれるイエス様のお声を聞きたいと思うのです。これこそ私の心の中に残ったわずか1%だが、大きな希望です。 





 

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