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キリストの愛



キリストの愛


 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。<ローマ人への手紙13:10>


 唐突ですが、仏教の言葉に四苦八苦や、因縁などと、わたしたちでもよく聞く言葉があります。しかし「愛」という言葉はあまり聞かないようです。

 「人間としての心の奥にあるものを掴み取り、この世での生き様を深く悟る」といった、心を己の中心に掘り下げていく静の部分としてはとても納得するものがあります。

 キリスト教はと言うと心を聖と向き合わせる外向きの動きがあるように思えます。

 自分をみつめていくと、どうしても悪いことが見えてきます。「自分が好きと思っている人はいますか」といってもなかなか手は挙がりません。もちろん「自分が好き」と思っていたとしても、手をなかなかあげられないものかもしれませんが、多くの人が、自分より他の人のほうが「できる人」だとか「頼りになる人」、「うらやましい人」と感じているのです。

 それは多分眼を向けている対象が「自分が欲望する人物像」であり、この世の成功者といわれている人々だからでありましょう。

 イエス様が心を向けて観ていた人々は違いました。

 名もない小さな幼子や婦人たち、病人であったり、障害のある人であったり、心をサタンに支配され苦しんでいた人たちなのです。

 安息日の律法にがんじがらめになっているパリサイ人たちの見ている前で、イエス様は右手のなえていた人の手をお癒しになりました。

 
 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。<ルカによる福音書6:9>


 有識者としては許せないイエス様の言動であったのでしょう。しかしそんなパリサイ人たちの考えていることは、イエス様にはすべてお見通しです。「またまた安息日にしてはならないことをする、しめしめこのことでイエスを責めたてよう」という具合に考えていたのでしょう。とにかく、イエス様を神冒涜罪でぎゃふんといわせたかったに違いありません。こんな時イエス様の返答はいつも「言い得て妙」です。



 アブラハムの「ただ信仰によって義とされた」という、神様の一方的な恵みとあわれみによる祝福の約束、そして何度も罪をくりかえす人間のためにモーセを通して与えられた「十戒」というように、旧約時代の恵みとまことをあらわす約束や律法は、イエス・キリストによって完成されています。
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 創られたすべての人が一人残らず救われるために、キリストの愛はわたしたちの罪を覆い尽くします。十字架の血潮が私たちを本当の愛と義に導いてくださるのです。このお方のほかに救いはありません。
 

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