しおんのゆめ・・・わたしのまわりは神様からのプレゼントでいっぱい!

しきりに願い求めよ

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<イースターエッグ>



しきりに願い求めよ


 しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。
 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 <ルカ11:8~10>
 


  しきりに「求めよ」というと、「ご利益宗教のようでなんかキリスト教らしくない」とか「身勝手なものばかり願うのは低俗な新興宗教だ」とか、言いかねない変なクリスチャン的プライドがあって(「大声を出して賛美したり、祈る」だとか、「異言で祈る」もそうだが)、敬遠されがちなのです。 

 しかし、もともとの初代教会は、このまるで低俗の集団のようにみえる新興宗教であったと思います。人々の目の前で、様々な「癒し」と「解放」、目を見張るような「奇跡」が起こっていったのですから。

 人が求めるもの、それはいつの時代も変わらないものです。貧しさ、病、痛み、そして怒り、悲しみ、憎しみ、嫉妬などの苦しみからの解放です。

 一口で「苦しみ」といっても様々です。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」 <ヨハネ16:33>と、イエス様が言われます。この苦しみや悩みがあるからこそ、人は強くも、賢くもなれます。

 人は、その道を選んだのです。

 エデンの園で、アダムとエバが食べた「善悪を知る木」とは「この世」のような気がしてなりません。人は選択してしまったのです。「この世(サタンが支配する世)に生きてなお勝利する道を」です。

 多分、「命の木の実」で「この世の君」に勝利するほうが、ずっと楽だったに違いないのです。しかし人が選んだのは「この世の実」でありました。脱落するものもいるでしょう。

 だからこそ、イエス様はあたらしい律法(これこそ神の義と愛です)を引っさげて、一人も滅びるものがいないようにと私たちの世にきてくださったのです。

 と考えると私たちは多分、自らの意思でこの世に生きているということになります。しかし、「命の木の実をいただいて生きる道」を再選択できるように、主は道を拓いてくださっているのです。それがイエス様の十字架と復活です。

 あがないの十字架こそが「命の木」です。世の始めから救いはこれしかなかったわけです。だからこそ、しきりに願い求めましょう。

 私たちがもともと選ぶべきであった「命の木」を、今いるこの地で選びましょう。「求めれば必ず与えられる」と、イエス様は約束してくださっています。 




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