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扉をあけて、日々主と共に







扉をあけて、日々主と共に


 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう。<ルカ14:21>


 イエス様は、たとえ話をされました。
 「ある人が、盛大な晩餐会を催しました。開催時刻がきたので再度の招きをしましたが、なんと皆、色々な言い訳をして招待を断り、誰も来ません。

  当然、主人は怒ったのですが、とにかく、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい』といって、参加者を集めたのです。」というお話です。

 しかし、それでも宴会の席は埋まってしまわなかったというのですが、「私の晩餐にあずかるものは一人もいない」とは、きびしいお言葉だなと思ってしまいます。

 「では、いったい誰がこの晩餐にあずかることができるのでしょう」という弟子たちの声がきこえてきそうですし、私たちもそう思います。

 たとえ話では、ある人ですが、ここではイエス様が「私の晩餐」と言っています。

 招かれる人は、果たして誰も主の晩餐に預かることができないというのでしょうか。つまりこれは、救われる人がいないといっているのです。「招かれた人=断った人」なのですから。

 ところが、イエス様に癒された人々や、収税人ザアカイのように、招かれてはいないが、イエス様に清められ、罪を許され、食事を共にしている人々がいることに気づかされます。

 かえって、イエス様のほうから近寄ってきてくださっているのです。


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 イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。<ルカ19:5> 

  見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。<ヨハネ黙示録3:20>


 私たちの罪が許され、救いを受けることができるのは、招きをも断り、いつも言い訳をし、自分勝手に振舞う私たちであっても、イエス様のほうから近づいて来て心の戸をたたき、声をかけてくださるという「ただ、主の豊かなあわれみ」によるからです。

 イエス様を私の心の中に迎え入れることこそ、私たちが日々イエス様とすごすための「イエス・キリストの福音のはじまり」なのです。





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